異文化理解は可能か

以前、Tumblrに書いた記事を思い出した。

下手な英文だが読んでほしい。(正直読まなくて何の支障もないので、「本文」へ  飛んでもらっても構わない)

   

I often think about cross-cultural understanding, in the other word, to understand between perfectly another culture. For example, USA and Japan. USA has Hug-Culture but Japan has Bow-Culture when we meet another person like your friends or your coworkers. It is perfectly another culture. –Of course in Japan, some person do such a Greeting like Hug and Kiss. I’m just saying “ Generalization ” in Japan. Please Remember this.– Can you understand?

In others, A Korean culture made me shock. In Korean, If you have delicious foods, you make a  Mastication-Sound but in Japan or USA, you should not make a such sound while you are eating. At Korea, It is one of culture and it’s showing that “I have a Delicious Food!”. In this way, in the world has many culture you don’t know. But if you don’t understand about these culture when you visit there, Is it OK?

I think it’s very impolite to these cuntly people but Probably we CANNOT understand about these culture PERFECTLY because a culture can muster while you are growing up. Perhaps we CANNOT muster such a short time. 

However, We CAN accept each other’s Culture and We SHOULD DO. It is not Which is GOOD or Which is BAD, All Culture is important and precious. We should know about other culture and accept it, I think.

 

      (本文)

異文化理解、または世界の現状を知ることについては、昨今の日本の教育にも大きく取り上げられている。

私も高校生のとき地理学の先生の薦めで世界の貧困事情とその解消についてグループでポスターを用いたプレゼンテーションをした。

こうした教育や、インターネットを用いた様々な実情を知る中で、一つの疑問が浮かぶ。

果たして我々はどこまで異文化を理解するべきなのだろうか

 

 

異文化理解とは

まずは異文化理解という言葉について正確に理解しておきたい。*1

異文化理解とは、について考えます。

異文化理解(いぶんか・りかい;Understanding of other cultures)とは、複数 の「文化」の概念を前提にして、自分のそれ(=文化)とは「異なる文化=異文化」を、理解した り、解釈したりしようとする努力のことをさします。

 例えば日本の文化を持った人間がアメリカの文化を持った人間と接触したときに、自分の持つ文化と違う・異なるということを知り、相手の文化(ここでいうアメリカ人の持つ文化)を理解する、理解しようと努力することである。

今回引用させていただいたこの定義は大阪大学の池田先生のWEBサイトに書かれていた定義であり、等しくこれが一般的な定義だとは申し上げないが、この考えをこの記事の土台として述べると、つまりは完全な理解を遂げていないにせよ理解しようと努めた時点で異文化理解を成し遂げているということである。

 

ではこの定義を念頭に置いて、今回の議題である「どこまで異文化を理解するべきか」について考えていこう。 

 

理解できる限度がある?

 そもそも我々の持つそれぞれの文化というものには種類があると思う。

家庭やその集落、街の中で生まれる独自の文化もあれば、国家や風土によって生まれる極めて大衆的な文化もあるだろう。

ここでは、前者は風習やならわしとして捉え、後者を文化として置くことにする。

 

さて、文化というのは我々が生まれる前には持ち得ないものである。

心臓を動かすことや泣く、笑うといった人間及び動物が自然体のまま行うことではなく、生を受けた後、両親や周囲の人間または集団により形成されるものである。

それ故に、持った文化というものはなかなか固いものだと思う。

それが当たり前のこととして身体に染み付き、おおよそ外部の人間から「それは文化である」と言われない限り「文化」として認識さえしない。

息をするのと同じようなことなのだと思う。

 

今はインターネットの普及により、自分の行動が文化から起因したものであるということが容易にわかるが、その前まではどうだったのだろうか。(残念なことに私が生まれた1998年にはもうコンピューターが普及していたようだし、少なくとも自我が芽生えたころにはインターネットを使用する親の背中を見て育ってきたので、インターネットがなかった時代・普及していなかった時代のことに関しては文献や聞きかじりの情報以上には知らないが)

 

麺類を音を立ててすすることが日本の文化であり、それが欧米諸国には受け入れがたいことだとして"Noodele Harassment"として取り上げられたことはご存じだろうか。

欧米には「食べるときには音を立てない」という文化がありその文化と「すする」文化が相容れないことだということを改めて思い知らされた。

 

K-POPを愛する身として少なからず韓国文化にも触れてきた。

最もショックだったのはやはり食事時の文化の違いだった。

彼らの食事の生放送(韓国では먹방(モッパン)と呼ばれる)を見た時のことだった。

なんと口をあけながら咀嚼していたのだ。それも咀嚼音付きで。

訪れたのは果てしないショックと、そして冷静な内面が囁く「これは何から来る違和感なのか」という疑問だった。

調べた結果、それも文化の違いだった。

韓国では美味しいということを示すために(美味しいですよという表現のために)咀嚼音を出す文化がある。

我々は「すする」文化はあるが、「口を閉じて食べなさい」「咀嚼音は慎みなさい」という文化が染みついている。

この違いによる違和感が私を襲ったのである。

 

つまり、完全に理解しようとしても受け入れ難い、理解しがたいと思う場面はいくつもある

 

欧米諸国のほとんどは家の中で靴を脱がない文化を持っているが、日本は靴を脱ぐ文化を持っている。

どこで読んだか忘れたが、我々は畳にスリッパで足を踏み入れることでさえ躊躇するようだ。

それは靴を脱ぐ文化が起因しているのと同時に、染みついた文化が己に「畳は靴を脱いで入るべきだ」とほとんど無自覚のままに叫ぶのである。

 

これを私は「異文化理解の限界」として捉えている。

理解したつもりでもどこかに違和感を感じたり、その文化に適応するために意識を用いていることがすべての証拠だ。 

 

"まあまあ異文化理解"の提案

そこで私は「まあまあ異文化理解」を提案する。

理解というより「異文化認識」といった具合だろうか。

要するに「こんな文化もある」という知識だけ持つ、ということである。

 

頭でっかちだと思われるかもしれないが(知識だけ蓄えても意味がないと)、無知は恐ろしいものである。

かのソクラテスは「無知の知」を考えたが、まさにその通りであり、「異文化認識」においてはそこよりもう一歩進まなけらばならない。

 

新しい文化に接触し違和感を感じた時、ひとまず「これは知らない文化だ」「いま新たな文化に触れている」と自分の無知の領域を認識する。

その後、無知で終わらずに書物なりインターネットなりでその文化についての知識を持つ。

知識を持ったうえで違和感や拒否感を感じてもそれはそれでいいのだ。

今まで念入りに形成されてきた己の文化が短時間で他の文化に入れ替わるとは考えにくい。

とにかく文化の違いを認識することが大切なのだ。

 

<「文化の違いを認識しないとどうなるのか」という想像>

例えば日本文化を持つ人(=A)とアメリカ文化を持つ人(=B)が始めた対峙したとする。

どちらも「異文化認識」能力はほとんどなく、相互の文化を知る由もない。

日本に来た異国の訪問者をもてなそうと、Aをうどんの屋台へBを連れて行った。

そこでBは「音を立ててうどんをすする」文化を人たちを目撃した。

しかしBにはそのような文化はなく、Aはそのことを一切知らない。

よってBは「音を立てて食事をする」人たちを己の文化という短絡的な物差しで測り、言い方を直接的にすると「下品な人たち」と捉えるだろう。

拒否感を示すBをみてAはどう思うだろう。

AはBが「すすらない・音を出さない」文化を持つということを知らない。

ということは、「せっかく連れて来たのによくわからないが拒絶する失礼な人」と見えてしまう。

おおよそこの二人は互いによくない印象を持ったまま別れるだろう。

知識さえあれば、認識しようという意志さえあれば、こんなことは容易に免れるのに。

 

 認識することで自分との違いを知る。

違いを知れば、異文化に接触した際に感じる違和感の正体を自分の中で消化できる。

そして何より、違いを知ることは相手をより理解する第一歩である。

 

完全な理解を求める人はなかなかいないだろうし、それは相手にとってあまりにも酷である。

誰だって異なるものに触れた時、何かしらの拒絶を示すだろう。

それは文化に限った話ではなく、自分と違う考えに出会ったときも同様である。

しかしそれを拒絶として自分の中にしまい込むのではなく「違い」だと認識し許容することで人間的に成長するわけだ。

 

"異文化認識"で己を成長させる

"異文化認識"の提案はあなたのなかでどう消化されただろうか。

同意としてだろうか。はたまた「違い」として認識していただけただろうか。

わたしは国際学の専門家でもないし、文化についての講義を受けたこともなく、ただ独自で調べたり考えたりしただけであるので、この記事についてはなんの保証もできないし責任が取れるわけではないということだけは明確にしておく。

 

あなたにとって異文化理解とは何だろうか。

 

 

最後に、私がよく閲覧するサイトをリンクとして貼らせていただく。

【TABI LABO】日常につかれたときに読みたくなる。

tabi-labo.com

【あおのユートピア】おめらすさんの価値観がジャストフィットする。

www.utopia-blue.com

リクナビNEXTジャーナル】人との付き合い方をよく書いてくれている、リクナビNEXTジャーナル。

next.rikunabi.com

 

*1:池田光穂「異文化理解の基礎」、

<http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/020511kyose.html>,2018年7月1日参照